受動喫煙防止をめぐる法令の整理
職場の受動喫煙対策は、以前は「努力義務」として扱われてきましたが、近年の法改正により事業者に対して明確な義務が課されるようになりました。関係する主な法令は2つです。
改正健康増進法(2020年4月全面施行)
健康増進法の改正により、多くの施設で屋内禁煙が原則となりました。職場を含む「第二種施設」(オフィス・飲食店・ホテルなど)は原則屋内禁煙とされ、喫煙できる場所は法令の要件を満たした専用室に限定されます。
| 施設区分 | 主な対象 | ルール |
|---|---|---|
| 第一種施設 | 学校・病院・行政機関など | 原則として敷地内全面禁煙。受動喫煙防止措置を講じた「特定屋外喫煙場所」の設置は可。ただし小学校・中学校・高校・大学・病院・保育所等では屋外も含む完全禁煙(特定屋外喫煙場所も不可) |
| 第二種施設 | オフィス・飲食店・宿泊施設など | 屋内禁煙(基準を満たした喫煙専用室での喫煙は可) |
喫煙専用室を設置する場合は、①煙が室外に流出しない構造、②出入口において室外から室内に向かって空気が流入すること(出入口の気流が0.2m/s〈毎秒0.2メートル〉以上であること)、③喫煙のみを目的とする部屋であること(飲食・執務を行わない)、などの要件を満たす必要があります。
労働安全衛生法(平成27年改正)
労働安全衛生法第68条の2(平成27年改正)では、「事業者は、室内又はこれに準ずる環境における労働者の受動喫煙を防止するため、当該事業者及び事業場の実情に応じ適切な措置を講ずるよう努めるものとする」と規定されています。受動喫煙防止対策は快適な職場環境の形成だけでなく労働者の健康保持増進の観点からも位置づけられており、改正健康増進法の要件を満たすことが労安法上の対応にも直結します。
「分煙」だけでは不十分なケースがある
以前はパーティションで仕切った「喫煙コーナー」や、同じ空調系統でつながった「喫煙スペース」を設けるだけで対応していた職場も多くありました。しかし改正健康増進法の基準では、空調の分離・気流の確保・室外への煙の漏れ防止が明示的に求められます。過去の「分煙」設備がそのまま法的要件を満たすとは限らないため、現状の設備を改めて確認することが必要です。
受動喫煙が健康に与える影響
受動喫煙とは、本人が喫煙していなくても、他人のたばこの煙(副流煙・呼出煙)を吸い込むことです。副流煙とはたばこの先端から立ち上る煙でフィルターを通さないため、喫煙者本人が吸い込む主流煙よりも有害物質の濃度が高いことが知られています。非喫煙者にとっても健康リスクは決して小さくありません。
短期的な影響
眼・のどの痛み、頭痛、鼻づまり、せき、倦怠感。煙への曝露が続くと症状が慢性化し、副鼻腔炎や慢性咽頭炎に移行することがある。
中長期的な影響
肺がん・虚血性心疾患・脳卒中のリスク上昇。喘息・COPD(慢性閉塞性肺疾患)の発症・悪化。妊婦への影響(低出生体重児など)。
職場での問題
集中力・作業効率の低下、欠勤増加。既往症のある従業員(喘息・アレルギーなど)には少量の曝露でも症状が出やすい。
特に問題になりやすいのが、既往症を持つ従業員や、たばこの煙に対して過敏な体質の方です。「周囲の人が気にしていないから大丈夫」という判断は通用せず、症状を訴えた従業員には個別に対応する必要があります。
職場に求められる具体的な対策
改正健康増進法を踏まえた対策は、大きく「完全禁煙」か「喫煙専用室の設置」かに分かれます。どちらを選択するかは各事業場の判断ですが、法的リスクの低減という観点では、完全禁煙が最もシンプルで確実な対応です。
完全禁煙(推奨)
- 敷地内またはビル内を全面禁煙とする
- 就業規則・服務規程に喫煙禁止区域を明記する
- 近隣の分煙環境や喫煙場所を案内し、喫煙者の理解を得る
喫煙専用室の設置
- 法令の要件(気流・構造・掲示)を満たす部屋を設置する
- 喫煙専用室内では飲食・会議など喫煙以外の行為を行わない
- 清掃など業務上やむを得ず入室する場合の対応ルールを定める
- 喫煙専用室の維持管理(フィルター交換・気流測定)を定期的に行う
受動喫煙に敏感な従業員への個別対応
- 症状を訴えた従業員には、まず産業医または主治医に相談するよう案内する
- 医師から受動喫煙を避けるよう指示された場合は、席の配置変更・換気改善などを検討する
- 喫煙専用室に隣接する部署・席の配置には特に注意を払う
テレワーク中の自宅での受動喫煙は?
家族の喫煙による自宅での受動喫煙については、企業が直接管理できる範囲ではありません。ただし、従業員から健康上の相談があった場合には、産業医への相談や主治医への受診を促すなど、支援できる窓口を示すことが望ましい対応です。
裁判例:江戸川区受動喫煙損害賠償請求事件
江戸川区受動喫煙損害賠償請求事件
- 事案の概要
- 原告は江戸川区役所の職員として、都市開発部・保健所などに勤務していた。勤務する執務室では当初「自席での喫煙」が許可されており、後に室内に喫煙場所が設置されたが、同じ空調空間で煙が流れてくる状態が続いた。原告は眼の痛み・のどの痛み・頭痛を訴え、慢性副鼻腔炎・慢性喉頭炎などと診断された。医師から「受動喫煙による急性障害が疑われ、非喫煙環境での就業が望まれる」との診断書を区に提出したが、区はその後も特段の措置を講じなかった。原告はこれを安全配慮義務違反(従業員の生命・健康を職場のリスクから守る使用者としての法的義務の違反)として損害賠償を求めた。
- 判決の内容
- 裁判所は、診断書が提出された後の一定期間(平成8年1月12日〜3月31日)について、区が「特段の措置を講ずることなく放置した」として安全配慮義務違反を認定した。具体的には、喫煙場所の撤去、原告の席を喫煙場所から遠ざける配置変更、自席禁煙の徹底といった対応をとるべきだったとされた。慰謝料として5万円の支払いが命じられた(他の期間の請求は棄却)。金額は小さく見えるが、これは診断書提出後の放置期間のみが対象とされた結果であり、対応が長引けば賠償額も大きくなり得る。
裁判例から学ぶポイント
この裁判例には、企業の受動喫煙対策を考えるうえで重要な教訓が含まれています。
「診断書を受け取った後」の対応が義務違反の分かれ目
本件で義務違反が認定されたのは、原告が診断書を提出する前ではなく、提出した後も放置した期間です。「知らなかった」では通らない、知った以上は動かなければならないという点が、裁判所に明確に示されました。従業員から健康被害の申告・受診報告があった時点で、会社は何らかの具体的な対応をとる義務が生じると理解すべきです。
もうひとつの重要な点は、本件当時の職場環境が「違法」ではなかったことです。改正健康増進法が施行される以前の時代にもかかわらず、裁判所は安全配慮義務(労働契約上の義務)の観点から使用者責任を認めました。つまり、法令の基準を形式的に満たしていても、従業員に健康被害が出た場合には義務違反を問われ得るということです。
- 症状の訴えや診断書を受け取ったら、すぐに対応策を検討する
- 「席を移す」「喫煙場所を遠ざける」など、できる対策から速やかに実施する
- 対応の経緯を記録として残しておく(いつ・何をした・誰が判断した)
- 難しい判断が必要な場合は産業医に相談し、意見書の形で記録を残す
産業医の役割
受動喫煙に関する問題は、「嗜好の問題」として片づけられてしまいがちです。しかし、症状が出ている従業員への対応は医学的な判断が必要であり、産業医が関与することで、会社と従業員の双方にとって適切な対処が可能になります。
産業医が支援できること
- 受動喫煙による症状を訴える従業員への面談・症状の確認・受診勧奨
- 職場巡視での喫煙環境チェック(喫煙専用室の気流・構造・配置上のリスクの把握)
- 受動喫煙を避けるべき健康上の理由がある従業員への就業配慮意見書の作成(業務内容・配置について産業医が医学的見地からまとめた書面。会社が対応策を決定する際の根拠資料になります)
- 衛生委員会での受動喫煙防止対策の現状評価・改善提言
- 禁煙支援の取り組み(健康経営の一環として禁煙外来受診を勧奨するなど)についての助言
受動喫煙の問題は、喫煙者・非喫煙者の双方が関係するため、職場内で対立が生じやすいテーマでもあります。産業医が「医学的な根拠に基づく客観的な立場」で意見を述べることで、会社が対策を進める際の根拠として活用できます。
よくある疑問
喫煙者が喫煙専用室を使っていれば問題ないですか?
喫煙専用室が法令の要件(気流・構造・掲示など)を満たしていれば、改正健康増進法上は適法です。ただし、喫煙専用室に隣接する執務エリアへの煙の流入がないか、清掃員など業務上入室する従業員に対する配慮はどうかなど、運用面でも確認が必要です。また、法令要件を満たしていても、特定の従業員が健康被害を訴えた場合には個別の対応が求められます。
加熱式たばこは受動喫煙対策の対象になりますか?
なります。改正健康増進法では、加熱式たばこ(iQOS・glo・Ploomなど)は「指定たばこ」として規制の対象です。加熱式たばこ専用の「指定たばこ専用喫煙室」を設けることは可能ですが、燃焼式たばこの使用は認められません。「煙が少ないから普通のオフィスで吸っても大丈夫」という判断は誤りです。なお、ニコチンを含まない電子タバコ(VAPE等)は健康増進法上の「たばこ」の定義に該当しない場合がありますが、においや有害物質への懸念から職場での使用ルールを明確に定めておくことが望ましい対応です。
従業員が「受動喫煙で体調が悪い」と申告してきた場合、会社はどう対応すればよいですか?
まず、産業医または衛生管理者に相談したうえで、症状の経緯を丁寧に確認します。主治医や産業医から診断書・意見書が出た場合は、それを踏まえた環境改善(席の変更・喫煙エリアの見直しなど)を速やかに検討してください。「様子を見る」「本人に我慢してもらう」といった対応は、後に安全配慮義務違反を問われるリスクがあります。対応の経緯を記録しておくことも重要です。
受動喫煙防止対策に違反した場合の罰則はありますか?
管理権原者(施設の管理者)については、都道府県知事等による指導・勧告・改善命令という段階を経て、その命令に違反した場合に50万円以下の過料が科される可能性があります。一方、喫煙禁止場所での喫煙者個人については30万円以下の過料が直接適用される規定があります。法的罰則に加え、受動喫煙による健康被害が生じた場合は、民事上の安全配慮義務違反として損害賠償請求を受けるリスクもあります。
まとめ
受動喫煙防止は、2020年の改正健康増進法全面施行により、多くの職場で法的義務となりました。しかし裁判例が示すように、法令の基準を形式的に満たすだけでは不十分な場合があり、従業員から健康被害の申告があった時点で、速やかに対応する義務が生じます。
この記事のポイント
- 改正健康増進法(2020年全面施行)により、職場を含む第二種施設は原則屋内禁煙。喫煙できる場所は要件を満たした喫煙専用室に限定される
- 受動喫煙は眼・のどの痛みなどの短期症状から、肺がん・虚血性心疾患といった中長期的な健康リスクまで幅広く影響する
- 「診断書を受け取っても何も対応しなかった」ことが安全配慮義務違反と認定された裁判例がある(江戸川区事件)
- 従業員から健康被害の申告・診断書が提出されたら、席の変更・喫煙エリアの見直しなど具体的な対応を速やかに実施し、経緯を記録に残す
- 産業医は職場巡視・従業員面談・就業配慮の意見書作成などを通じて、受動喫煙対策を客観的にサポートする
喫煙専用室の要件確認、症状を訴える従業員への対応、衛生委員会での取り上げ方など、受動喫煙防止に関してお困りの場合はぜひ産業医にご相談ください。
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衛生委員会での情報提供など、福岡なかむら産業医事務所がサポートします。