転倒は職場で最も多い労働災害

厚生労働省の令和5年労働災害発生状況によると、休業4日以上の死傷者数のうち転倒が全体の約24%を占め、事故の型別で第1位となっています。製造業・建設業だけでなく、飲食業・小売業・医療福祉・オフィスなど、あらゆる職場で発生しており、「うちの会社は危険な作業はないから」という認識が対策の遅れにつながっています。

転倒は骨折・頭部外傷・脊髄損傷など重篤な後遺症を招くことがあります。特に高齢の従業員では大腿骨頸部骨折が生じると、長期療養や廃用症候群のリスクが高まります。件数が多いだけでなく、一件あたりの被害が深刻になりやすい点でも、企業として重点的に取り組むべき災害類型です。

転倒が多発しやすい職場環境

  • 飲食業・厨房:油・水による床面の濡れ・滑り
  • 小売・倉庫業:荷物の移動、床面の段差・凹凸
  • 医療・介護:消毒液による床の滑り、夜間の暗い廊下
  • 屋外作業:雨天・霜・凍結・傾斜面
  • オフィス:カーペットのめくれ、コード類の引き回し

転倒労災が発生した場合、企業は労働者災害補償保険(労災保険)による補償とは別に、民事上の損害賠償責任を問われることがあります。根拠となるのは、労働契約法第5条に明文化された安全配慮義務です。

労働契約法第5条(安全配慮義務)

「使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする。」

転倒事故では、安全配慮義務違反を理由とした損害賠償請求(民法第415条の債務不履行責任、または民法第709条の不法行為責任)が認められるケースが増えています。労災保険が支払われたとしても、企業の賠償責任がなくなるわけではありません。

⚠ 「本人の不注意」では免責されない

管理職が「本人が気をつければ防げた」と処理してしまうケースがありますが、裁判では環境整備・管理体制の不備を理由に会社の責任が認定される事例が相次いでいます。後述の第一興商事件では、一審で棄却された請求が高裁で逆転認定されました。

転倒リスクの要因と予防対策

転倒予防は、物的環境・人的対策・管理体制の3つの観点から取り組むことが基本です。

物的環境の整備

床面の凹凸・段差・摩耗の定期点検と補修。濡れた床への滑り止めシート設置。照明の照度確保。使用する履物の状態管理(摩耗した靴・サンダルの交換)。

人的対策

採用時・配置転換時の安全教育。年1回以上の転倒予防研修の実施と記録。「急がない・急がせない」職場文化の醸成。高齢従業員への個別指導。

管理体制の整備

ヒヤリハット報告の仕組みの構築と対応記録の保存。産業医・衛生管理者による月1回の職場巡視でのリスク確認。衛生委員会での定期的な審議。

特に重要なのがヒヤリハット報告への対応記録です。「転びそうになった」という報告を受けながら放置していた場合、裁判ではリスクを認識していたにもかかわらず対策を怠ったとして、会社の責任が重く評価されます。

判例紹介:第一興商事件

転倒労災における安全配慮義務の考え方を示す判例として、第一興商事件があります。一審では会社の責任が否定されたものの、控訴審で逆転認定された点が実務上重要な意味を持ちます。

判 例

第一興商事件

東京高等裁判所 令和4年(2022年)6月29日判決

事案の概要

被告・株式会社第一興商が運営する横浜市内の居酒屋店舗で、調理担当の40代男性従業員が、食材の運搬のために屋外の外階段を使用していた。2018年8月、雨に濡れた外階段を店備え付けの摩耗したサンダルを履いて降りた際に転倒・骨折した。

この事故の前にも、同じ外階段で複数の従業員が転倒しており、そのうちの1件は店長が目撃していた。また事故の翌月にも、別の従業員が同じ場所で転倒している。

一審(横浜地裁)の判断

一審は「従業員自身が気をつけていれば防げた事故」として、会社の安全配慮義務違反を否定し、請求を棄却した。

東京高裁の判断(逆転)

東京高裁は一審を覆し、会社の安全配慮義務違反を認定。約320万円の損害賠償を命じた(原告側の過失割合40%を適用した過失相殺後)。

高裁は次の点を重視した。①サンダルの裏面が摩耗して滑りやすい状態だったこと、②同じ場所で複数名が転倒しており店長がその事実を把握していたこと、③「4人全員が不注意で転ぶとは考えにくい」として客観的な危険性を認定したこと、④滑り止め加工・注意喚起・新しいサンダルの用意は「事前に十分可能だった」と判断したこと。

本判例の意義:一審で「本人の不注意」として棄却された転倒事故が、高裁で逆転認定された。過去に同じ場所で複数の転倒があり管理者がそれを把握していた事実が決め手となり、危険性の予見可能性と事前対策の実施可能性が安全配慮義務の判断基準として示された。

判例から学ぶポイント

ポイント① ヒヤリハットを把握した時点で義務が発生する

本件では、店長が先行転倒を目撃していた事実が決定的な根拠となりました。管理者がリスクを「認識していた」と認定されると、その後の対応が問われます。ヒヤリハット報告を受け取った管理職は、記録に残し、改善措置を取ることが義務となります。口頭での注意だけで終わらせると、「認識しながら放置した」と評価されるリスクがあります。

ポイント② 事後に行った対策は「事前に可能だった」と判断される

裁判所は、会社が事故後に実施した滑り止め加工・サンダルの交換などの対策を根拠に、「これらは事前にも十分可能だった」と判断しました。事故が起きてから対策を取ること自体が、安全配慮義務違反の証拠として使われる構造になっています。「事故が起きるまで気づかなかった」ではなく、「定期的に確認・改善する仕組み」を持つことが重要です。

ポイント③ 「個人の不注意」論には限界がある

本件では過失相殺(原告側40%)が適用されましたが、それでも会社の責任は認定されました。複数名が同じ場所で転倒している状況下では、「それぞれの不注意」という主張は成立しにくくなります。環境的なリスクが存在する場合、個人の注意義務だけに責任を押し付けることは法的に困難です。

産業医の役割

転倒予防は安全衛生管理の問題であると同時に、健康管理・作業能力評価の問題でもあります。産業医は医学的な専門家として以下の場面で企業を支援します。

産業医が支援できること

  • 月1回の職場巡視で床面・照明・通路の状態を確認し、衛生委員会に改善勧告として提案する
  • 高齢従業員の健康診断結果・面談から、筋力低下・バランス障害・視力低下・ふらつきを起こしやすい服薬状況を評価し、就業配慮の意見を提出する
  • 転倒事故発生後の原因分析に医学的知見を提供し、再発防止策の策定を支援する
  • 衛生委員会でヒヤリハット件数・転倒発生件数を定期的に報告し、重点対策部署・時間帯の特定を支援する
  • 転倒予防に関する安全教育(転倒の医学的メカニズム・高齢化に伴うリスク)を従業員向けに実施する

特に産業医として注意すべきは、服薬によるふらつきリスクです。睡眠薬・抗不安薬・降圧薬・抗ヒスタミン薬などはめまいや低血圧を引き起こし、転倒リスクを高めます。高齢従業員や多剤服用の従業員には、産業医面談の機会に服薬状況を確認することが重要です。

よくある疑問

労災認定されれば、会社への損害賠償請求はされませんか?

労災保険による補償と、会社への民事上の損害賠償請求は別の制度です。労災認定がされても、会社が安全配慮義務を果たしていなければ、労働者から別途損害賠償請求を受ける可能性があります。第一興商事件でも、労災とは別に会社の賠償責任が認められています。

転倒した従業員にも過失がある場合、会社の責任は軽くなりますか?

過失相殺(被害者側の過失を賠償額から減額する仕組み)が適用されることはあります。第一興商事件でも原告側に40%の過失が認定されました。ただし、過失相殺が適用されても会社の責任自体はなくなりません。環境的なリスクが存在する場合、個人の不注意を主な理由に責任を回避することは困難です。

ヒヤリハット報告がなくても、会社の責任を問われることはありますか?

あります。危険な状態が客観的に認識できる状況であれば、報告がなくても「知ることができた」として責任を問われる場合があります。定期的な職場巡視・点検を実施し、リスクを能動的に把握する仕組みを持つことが重要です。

まとめ

転倒は件数・重篤度ともに高い労働災害です。第一興商事件が示したように、「本人の不注意」で処理しようとしても、環境的なリスクが存在する場合には会社の安全配慮義務違反が認定されます。

転倒リスクの把握と対策の記録を組織的に整備することが、従業員の安全を守るとともに、法的リスクを回避することにつながります。産業医の活用も含めた転倒予防体制のご相談はお気軽にどうぞ。

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